時は天正10年6月4日(1582年6月23日)羽柴秀吉軍の秘策「備中高松城水攻め」で籠城している清水宗治軍に「本能寺の変」で織田信長が亡くなった事を隠し「五千人の家臣の命と毛利軍の領地の保証を条件に、城主清水宗治の首を差し出せ」と講話を持ちかけ「主君毛利家や家臣の為ならば」と清水宗治公が自刃(切腹)しました。
下克上が常の戦国時代に珍しい「武士の鑑、忠義の侍」でした。
詳しくはネットで調べてみて下さい。以下、宗治公と兄の月清入道の辞世です。
「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」
「世の中に 惜しまるる時散りてこそ 花も花なれ いろもありけれ」