南海に たとえこの身は果つるとも いくとせ後の春を想えば

昭和19年10月25日 比島(フィリピン)レイテ沖海戦で神風特別攻撃隊 敷島隊4番機として米軍空母へ

250キロ爆弾を搭載したゼロ戦で体当たり攻撃を果たした宮崎県出身の19歳の永峯肇飛行兵長の辞世です。

未曾有の国難に際し、いかに軍の命令と云えど健康な青年が生きて帰る望みの無い体当たり攻撃を覚悟するまでには

どんなに葛藤があった事でしょう。自らを犠牲にしてまで祖国や家族を護る気持ちには本当に頭が下がります。

この慰霊碑は宮崎空港に建立されています。あと一基は宮崎県護国神社にもあります。

いくとせ後の春 を、平和を願って亡くなった永峯肇飛行兵長には今の日本はどう映っているのでしょうか。

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